年の初めにといっては遅いけど
今日,寺の役員会があり,その後,新年会。
その後思ったこと。酔っぱらっているのでつれづれに書くことになると思うが,
残しておきたいと思う。
弱い自分と決別しなければと思ったこと
このblogを読んで下さっている方ならおわかりだと思うが,自分は結構後ろ向きである。
弱い自分を見つけては嘆く。それは自分がそういう星の下に生まれた
のではないかという愚痴がほとんど。何も生み出していない。
去年高蔵寺のご住職様から「役員さんとともに」という自分の発言には
違和感があるとご指摘を頂いた。その時にはでも今の状況ではそうするしかない
と思う自分もいた。しかし今やっとわかった。それは自分の自信なさの
表れなのだと。だが自分は寺という組織においては責任のある立場にある。
だから,きちんとするべきことをして頼ってこられることを導く役割を
持っているのだ。その人間が弱くては頼る人を不安にさせてしまう。
だから,自分はその自覚を持って動かなければならないのだ。
自分の自信のなさを免罪符にするのはもうやめよう。
きちんと進むべき道を見据えて前に進むしかないのだ。
今までは自分の自信のなさから,他人の評価をとても気にしすぎる面があった。
だがそれも結局努力することを回避する言い訳に過ぎなかったのだ。
これからは,自分の弱点に必要以上に気をとられることなく,自分の使命を
全うすることを目標に生きていこう。自分を必要としない人の批判など
気にすることはないのかもしれない。それよりも自分を必要としてくれる
人の声に耳を傾ける努力をしよう。何となくいい人を目指していたが,
結局それは誰も救うことができない。高野山の常喜院のご住職からも
人を救える坊さんになれと言われた。まさにこれのことなのだと思う。
言い訳を捨てて,進んでいこうと思う。
今,そしてこれから救いを求めてくださる方々のために。
その後思ったこと。酔っぱらっているのでつれづれに書くことになると思うが,
残しておきたいと思う。
弱い自分と決別しなければと思ったこと
このblogを読んで下さっている方ならおわかりだと思うが,自分は結構後ろ向きである。
弱い自分を見つけては嘆く。それは自分がそういう星の下に生まれた
のではないかという愚痴がほとんど。何も生み出していない。
去年高蔵寺のご住職様から「役員さんとともに」という自分の発言には
違和感があるとご指摘を頂いた。その時にはでも今の状況ではそうするしかない
と思う自分もいた。しかし今やっとわかった。それは自分の自信なさの
表れなのだと。だが自分は寺という組織においては責任のある立場にある。
だから,きちんとするべきことをして頼ってこられることを導く役割を
持っているのだ。その人間が弱くては頼る人を不安にさせてしまう。
だから,自分はその自覚を持って動かなければならないのだ。
自分の自信のなさを免罪符にするのはもうやめよう。
きちんと進むべき道を見据えて前に進むしかないのだ。
今までは自分の自信のなさから,他人の評価をとても気にしすぎる面があった。
だがそれも結局努力することを回避する言い訳に過ぎなかったのだ。
これからは,自分の弱点に必要以上に気をとられることなく,自分の使命を
全うすることを目標に生きていこう。自分を必要としない人の批判など
気にすることはないのかもしれない。それよりも自分を必要としてくれる
人の声に耳を傾ける努力をしよう。何となくいい人を目指していたが,
結局それは誰も救うことができない。高野山の常喜院のご住職からも
人を救える坊さんになれと言われた。まさにこれのことなのだと思う。
言い訳を捨てて,進んでいこうと思う。
今,そしてこれから救いを求めてくださる方々のために。
Comments
弱いことはいけないことではないと思います。弱みのない人間なんてキモチワルイと思いますよ。
今のMacchinさんだから頼りにしてる人もいるのではないでしょうか??もちろん「強く」なられてもそうあると思いますが。
と
10%脱力という本(薄っいの)もあることだし
脱力、ポジティブ、自分らしく、でいいんじゃないかと思う今日この頃です。自分にはなかなか思えませんがねぇ
子供の頃からMacchinさんの立場は大変だなーと思ってました。今ももちろんです。立派に役割を果たしていらっしゃると思います。両方大変なお仕事でしょ?それに「いいお父さん」3足のわらじはなかなかどうして。
今 一生懸命頑張っているお父さん先生&お坊さんの姿は娘さん・生徒さん・檀家のみなさんには伝わるはず!
それが見えない人は白内障の検査をおすすめします
真言宗というか、「南無大師遍照金剛」としては、「立派なお坊さんとして人を救う」と言うより、同じ弱い人間として、人に寄り添い、少しの助けとなるとことで、十分なのではないのでしょうか。
「自分の弱点に必要以上に気をとられることなく」といいう方向は、正しいと思います。しかし、自分に弱点があることを忘れてしまっては、本当に弱い人への助けができなくなってしまうような気がします。
仏教にもいろいろの考えがあると思います。その中で、「突進、中央突破の日蓮宗」「どこまでも人を救う浄土宗」等の中で、「全てを遍く照らす」真言宗としては、弱さを感じた人が、後からの暖かな日差しを感じて一歩前へ進めれば、それで良いのではないのでしょうか。