卒業生の保護者の方からご招待いただき,懇親会に参加させていただいた。
卒業生が4年生の時,担任させていただいていた。とにかくパワーのある保護者の皆様。
こうした空間にいさせていただいて幸せだと思った。我が子のことをダシに
語り合う姿はまさに親。やはり子どもの健やかな成長を願う親の思いは
深く,そして重い。この姿を見るということはこれから教員を続けていく上で大切な経験をさせていただいたように思う。
眠くなったのでこれでおしまいにして寝ます。お休みなさい。
今日は勤務校の卒業式。4年生のころ担任した子どもたち。
4年生のころは,子どもらしさを残しながらも思春期の入り口に立っていた。
とにかく楽しい,楽しいで過ぎた一年だった。
保護者の方々ともしっかりつながることができた年だったとも思う。
そんな子どもたちも高学年になるにつれ,様々な壁にぶつかることもあったが,
6年生となり,見事に学校の代表として見事な働きを見せてくれた。
その活躍ぶりは誰の目にも明らかだった。
子どもたちの自覚と担任とのシナジー効果がもたらした結果である。
とにかくうまいのである。子どものやる気を引き出すのが。
本人は「いや,なにもしてないですよ」というものの,随所に細かい配慮がある。
簡単に言えば子どもたちの心の動きを察知するセンサーが高性能なのだ。
こうしてすばらしい小学校生活のゴールを迎える6年生と担任の先生へ
おめでとうの気持ちを伝えるためにどうすればいいか考えた。
本当に変わったことや奇抜なことを考えるセンスが無く,嫌になってしまうのだが,
そうならば当たり前のことをきっちり磨こうと考えた。
ちょうど在校生の指導担当であったので,練習にはかなり気合いを入れた。
本当にオーソドックスな練習だったと思うが,
「6年生へありがとうの気持ちを伝えよう」という指導で在校生の子どもたちも
気持ちは高まっていったと思っている。もちろん全体指導担当だっただけで,
実際の教室での指導は各担任の先生がされている。
そういう意味でもすばらしい卒業式になったと思う。
自分はといえば感傷にひたるというよりは全体の進行に気を配っていたので,
顔が引きつっていたと思う。でもかまわない。
すべて子どもたちは分かっていると思うから。おめでとうのメッセージが伝わったことを。
卒業式が終わったあとの6年生の晴れやかな笑顔を見てそう確信した。
卒業生に関わったすべての方々,おめでとうございます。
あふれんばかりの可能性をどうかうまくいかして幸せな人生を送れますように…
法要に出仕させていただいた。
役をいただいての法要参加はこれが初めて。
不安は尽きなかったが,結局それを乗り越えるには経験しかないということ。
その場に立ってみると分かることがたくさんあった。
そして,まだ分からないこと,自分に足りないこともたくさん見えた。
しかし,会の一員として大震災ではからずも命を落とされた方々の魂が安まるよう,
一生懸命お勤めさせていただいたつもり。
会所の木山寺本堂は多くの僧侶読経と寺族婦人会のご詠歌が響き渡り,
力を合わせるとこんなパワーが生まれるのかと圧倒された。
こうした力が少しでも命を落とされた方々はもちろん,現在もつらい思いをしながら
過ごされている多くの方々の生きる力になるといいと思う。
ともあれ,こうした法会を企画してくださった青年会役員の方々,お疲れさまでした。
美作青年会主催の物故者追悼法会の打ち合わせに参加させていただいた。
この話が入ってきたのは水曜日のこと。昨日だ。ずいぶん急だとは思ったが,
何とか行けそうな感じがしたので,「行きます」と返事をした。
すると,「役があるんですが」と。行きますと言った以上,それはできませんとは
言えなかった。不安だがお引き受けすることにした。
今日,その会場に行ってみると青年会の方々が多く集まっていた。
自分の中途半端な決意が恥ずかしかった。皆さん若いのにきちんと勉強された方ばかり。
でも,こうした場に出ていくことで経験を積ませていただけるのはありがたいこと。
また,こうした場に誘っていただけることはこの上ない幸せ。
時期的には厳しい。教員的にはもうラストスパートに入っている。
子どもが帰ったあとが仕事を進めるゴールデンタイム。
だが,こうして自分達だからこそできることに参加することはすごく意味がある。
でも,自分一人では何もできなかっただろう。普段通りにお勤めしている
だけだったかもしれない。そんな中,祈りの場と機会をを提供してくださった
方々には本当に頭の下がる思い。せめて参加させていただいて自分も気持ちを
届けることができたらと思う。