昨日はさすがに
昨日は葬儀のため、学校を休ませていただいた。昨日は終業式で色々と行事や仕事もあったが、無理をして行くのはやめにした。
普通、葬儀の後は学校に戻り、2時間だけでも勤務をするようにしていた。なぜ勤務をするかというと、年次休暇の節約のためである。
通常、教員には40日の年次休暇が認められている。しかし、これは前年度の繰越分を含めてのことであり、本当は20日の中でやりくりすることになる。この20日に収めるためにかなりの努力をしている。
うちの寺では、葬儀の依頼が年間20件を超える。自分が葬儀を受けるようになってからも、このペースに変わりは無い。当然、土日の葬儀や家族葬もあるけれども、やはりウィークデーの通常の葬儀が1番割合としては多い。だから、ウィークデーの葬儀で一日休みを取ってしまうと、それだけで年次休暇の20日分は飛んでいってしまう。
だからこそ、たったの2時間でも勤務をし、4件このパターンでいくと1日節約できる計算でがんばっている。このほかにも棚経や年3回ある賑やかに行う大師縁日、組内寺院の抜けられない用事等があり、本当にギリギリの綱渡り状態なのである。自分の用事をするための休みというものはない。風邪をひいても休むための時間は無い。こんなふうにしてやりくりにやりくりを重ね、工夫して休みを節約した結果、今年は20日以内に収めることができ、昨日は年末の締日に対して2日休みを残すことができた。だから昨日の葬儀で一日お休みをいただくことにした。何もなければまた出勤したパターンだが、薬も少なくなり、かかりつけ医に通院しようと思ったのだ。
学校での仕事として校内研修や初任者指導があるので、葬儀から戻ってこの仕事をすることもある。また、どうしても受け持ちの授業を担任に返すようになるので、同僚の理解なしにはたとえ制度的には休めても、この仕事を続けるのは難しい。だからこそ、学校での人間関係にも気をつかってやっている。
弱音を吐けば、やめればいいではないかと言われてしまう。当然のことだ。また、ただやっているだけでは中途半端なという指摘をいただく。実際、教員も坊さんも中途半端じゃないのかと指摘を受けたことがある。それはとても自分にとって辛い指摘だった。そうなりたくなかったからだ。どちらもやると決めてやっていることなのだから、水準以上の結果は残したいと思っている。しかし、言い訳をすればば、自分は中途半端ですと言っているのと同じである。そんな性分だから仕方ない。ただ、体の方はいつまでもこの状態を許さないだろう。だから言い訳をするのではなく、本当に無理になってしまった時は、それが教員のやめ時となるだろう。好きでやっていることなのだから、少しでも長く続けていきたいと思う。そんなことをお休みをいただきながら考えた。
普通、葬儀の後は学校に戻り、2時間だけでも勤務をするようにしていた。なぜ勤務をするかというと、年次休暇の節約のためである。
通常、教員には40日の年次休暇が認められている。しかし、これは前年度の繰越分を含めてのことであり、本当は20日の中でやりくりすることになる。この20日に収めるためにかなりの努力をしている。
うちの寺では、葬儀の依頼が年間20件を超える。自分が葬儀を受けるようになってからも、このペースに変わりは無い。当然、土日の葬儀や家族葬もあるけれども、やはりウィークデーの通常の葬儀が1番割合としては多い。だから、ウィークデーの葬儀で一日休みを取ってしまうと、それだけで年次休暇の20日分は飛んでいってしまう。
だからこそ、たったの2時間でも勤務をし、4件このパターンでいくと1日節約できる計算でがんばっている。このほかにも棚経や年3回ある賑やかに行う大師縁日、組内寺院の抜けられない用事等があり、本当にギリギリの綱渡り状態なのである。自分の用事をするための休みというものはない。風邪をひいても休むための時間は無い。こんなふうにしてやりくりにやりくりを重ね、工夫して休みを節約した結果、今年は20日以内に収めることができ、昨日は年末の締日に対して2日休みを残すことができた。だから昨日の葬儀で一日お休みをいただくことにした。何もなければまた出勤したパターンだが、薬も少なくなり、かかりつけ医に通院しようと思ったのだ。
学校での仕事として校内研修や初任者指導があるので、葬儀から戻ってこの仕事をすることもある。また、どうしても受け持ちの授業を担任に返すようになるので、同僚の理解なしにはたとえ制度的には休めても、この仕事を続けるのは難しい。だからこそ、学校での人間関係にも気をつかってやっている。
弱音を吐けば、やめればいいではないかと言われてしまう。当然のことだ。また、ただやっているだけでは中途半端なという指摘をいただく。実際、教員も坊さんも中途半端じゃないのかと指摘を受けたことがある。それはとても自分にとって辛い指摘だった。そうなりたくなかったからだ。どちらもやると決めてやっていることなのだから、水準以上の結果は残したいと思っている。しかし、言い訳をすればば、自分は中途半端ですと言っているのと同じである。そんな性分だから仕方ない。ただ、体の方はいつまでもこの状態を許さないだろう。だから言い訳をするのではなく、本当に無理になってしまった時は、それが教員のやめ時となるだろう。好きでやっていることなのだから、少しでも長く続けていきたいと思う。そんなことをお休みをいただきながら考えた。
Comments
当然、誰かにお願いして…というのは父が倒れたときからずっと家族から(というか母から)言われてきたことです。私がそれを決断するのがいつになるか、それだけのことなんですけどね。
石の上にも3年といいますが、3年経ってしまいました。おっしゃるとおり、いざというときの備えはしておかなければいけませんね。
さて今日、当方の組寺長さんと話をしている中で思ったのは「お寺には有給休暇はないのか?」
授業を替わってもらうように、檀務を替わってもらうことはできないのかな??
「そんなことは住職と檀徒の関係では絶対にできません〜」と言われるけど、本当か???
「住職と檀徒」の関係しかないとすれば、そこに「お□□様」や「○○山△△宗」といった歴史の継続はあるのかな……
もしかして、今日の貴方も、学校を休むのではなく、お寺を休んでも良かったのではないかな?
学校には教程があり、お寺には次第がある。
学校の授業を替わってもらえる方があるように、檀務を替わってもらえる方も、おられるはず。
その視点を失うと、お寺の独善に走ってしまうのではないか〜〜 そんなことを思ってしましたは。
ばかなことを言うようですが、縁日でも供養でも、困った時には、周囲の方にお任せ下さいな… 檀家さんに迷惑をかけないくらいの力はお持ちかと。