Macchin Weblog

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長い1週間

前回の書き込みから1週間。長かったような,あっという間だったような・・・。
前回の書き込みは病院で娘が処置してもらっている間に書いたものだ。
それから薬をもらって家に帰り,墓参りにきた親戚の応対をしていて,夕方になったころ,
嫁さんが娘の様子がおかしいと慌てて言ってきたので,見に行ってみると,
顔は真っ白で,ぐったりしていた。呼びかけにも反応しなかった。
ちょうど看護婦のいとこが来ていたので,聞いてみると,
救急車を呼んだ方がいいという。しかし,自宅は救急車が来るまで15分以上かかる。
自家用車で行けば病院まで10分。自分の車で行くことにした。
病院に着くまで急がなければならないが,冷静で,事故を起こさないように少し抑えめに走った。
しかし,手は震えていた。
病院に入って点滴を打ったころ呼びかけに反応するようになった。
高熱で反応できなかったためらしい。この状態で熱は40度を超えていた。
脱水症状もあるということで,点滴を打ちながらスポーツドリンクを飲ませると,
ペットボトル半分くらい飲んだ。でも,体がびっくりしたのか,噴水のように全部はいてしまった。
まだ予断を許さないので,小児科のある病院への転送をお願いした。
病院の方も空きベッドの関係や当直が小児科でないということで,転送に応じてくれた。
救急車での搬送。まだ熱が高いので意識があるときと,ぐったりしているときがあった。
津山の転送先の病院に入り救急処置室で見てもらった。
熱の具合からインフルエンザを疑っていたが,反応は出なかった。
あまりにも熱が高いので脳への影響を心配した。座薬を入れてもなかなか下がらない。
インフルエンザの疑いが晴れないため,個室へ入った。
深夜になり,熱が,39度台に入ったら,急にしゃべりまくるようになった。40度を超えると静かになった。
体への負担がそれだけ多いのだろう。その日はほとんど眠れなかった。
次の日は学校を休み,子どもについていることにした。
卒業式前で学校には迷惑をかけたが,我が子のためなので,自分にはそうするしか選択肢はなかった。
次の日は卒業式に出席。午後から休みを取って津山へ。
自宅からも職場からも病院が40km以上はなれているため,気軽に移動というわけにはいかない。
ただ,がんばっている娘を応援したいという気持ちだけだった。
座薬と抗生剤が効いている間はかなり楽なようで,話もしっかりできるようになった。
しかし,熱の原因が特定できず,かんがえられる要素を一つずつつぶしているようだった。
ようすが落ち着いているようなので自分の母親に娘を頼んで夫婦で帰宅。通知票を仕上げる。
次の日は修了式の前日ということで,娘の様子を聞きながら仕事。
文集を仕上げるために9時前までかかる。この日は津山に行けずに帰宅。
翌25日は終業式。校舎建築のため現在の校舎は壊してしまうため,教室の片付けなどを行う。
その後,関金での打ち上げに参加。転勤して行かれる先生と話す。
26日朝,関金から津山へ。2日も顔を見ていないというのははじめてかもしれない。
元気そうにしているので安心。1時間ほどいっしょにいて法事のため自宅へ帰る。
法事を2件済ませて午後再び津山へ。お見舞いに来てくれた親戚を病院案内したそうだ。
6階は見晴らしがいいとか。かなり元気。血液中の炎症反応の数値がだいぶ下がってきた。
27日は移転に伴うPTA奉仕作業。その後子どもと一緒に校舎お別れ会。
終業式もあったが,これが実質の締めくくりといっても良い。
転校していく子どももおり,思い出のCDを作成し,配布。
いくつかのフォトシネマもおまけでつける。保護者の方にも喜んでいただけたようだ。
会終了後,津山へ。お絵かきを楽しんでいた。血液検査の状態がよかったら帰れるらしい。
6時から真言青年の会。9時過ぎまでかかる。再び病院へ。嫁さんは既に寝ていた。
娘ももうすぐ寝るといった状態。寝付くまで手を握ってやり寝たのを見計らって帰宅。
今日の血液検査,よくなっているといいが。
こうしてふり返ってみると,やっぱり長かったんだなあ,と思う。
あれこれ心配していたことも,今になってみると,親にならせてもらっているのかなあ,と感じる。
苦しんでいる我が子の姿を見ると,何とも言えない気持ちだった。
しかし,こうしたことがあるからこそ,責任を持って守ってやらないといけないし,
守ってやれるのは親であり,家族であるということがわかった。
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