池田修先生の主張
先日blogにコメントしていただいた京都橘大学の池田修先生がtwitterで
学級事務職員導入について興味深いコメントをされている。以下は知り合いの先生方に
メールにまとめて送ったもの。
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本や講座で有名な「明日の教室」シリーズの事務局をつとめられている
京都橘大学 池田修先生が興味深い主張をされています。どうお感じになりますか?
池田修先生のtwitter
http://twitter.com/#!/ikedaosamu
学級事務員についてのblogでの主張1
http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2010/12/post-114d.html
学級事務員についてのblogでの主張2
http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2010/12/post-a47b.html
twitterでの主張
1)教師はまじめでないとダメである。そりゃあ、子どもたちの命や未来に関わっての仕事なのだから、きちんとしていなければダメである。それは、そうである。だが、これが今や限界に来ているのではないだろうか。
2)バーンアウト。燃え尽き症候群である。これは看護婦、医者、教師などに多い。もっともっとと自分を追い込んで、最終的に燃え尽きてしまうのである。こんな私でも(あ、燃え尽きるかもしれない)と思ったことがある。
3)教師の仕事はゴールがない。そして、子どもを相手にしているので、まじめなので、どうしても(自分が頑張らなければならない)と思ってしまいがちなのだ。そして、頑張った結果燃え尽きてしまうことがある。私は何人かの燃え尽きた先生と仕事をしたこともある。
4)また、教師は「流石、先生!」と言われることを求められる仕事でもある。逆に言えば自分から「私はもうダメです」と言えない仕事なのである。先生という仕事は、子どもたちから(この先生の言うことは聞かなければ)と思われないと成り立たない仕事なのである。
5)かつて、そう30年位前までの日本は、「先生の言うことを良く聞くんだよ」と親が学校に送り出してくれた。しかし、今は違う。親が、社会が作ってくれていた「先生」というポジションを、先生が学校が作り出した上で、先生の仕事をしなければならない。これ、新人に出来るのか?
6)「流石先生!」と言われることを求められる先生は、「私には出来ません」と言えない。これが先生の精神疾患、多くは鬱病の元になっているのではないかと私は考えている。
7)先生は、スーパーマンではない。それでもスーパーマンを求められる仕事である。それはそうだと思う。だが、限界に来ている先生は多い。デンマークの教育を視察に行ったとき、学校のあらゆる職種にサポートがいるのに驚いた。校長にまでいる。
8)ところが、日本ではサポートどころか追いつめてくる。「あなたの指導がおかしいのでは?」という文脈で。ま、たしかに100万人もいれば、これはいかがなものかという教員もいる。しかし、多くの教員は踏ん張っている。ヨーロッパの教員の友人は、日本の教員のレベルの高さに本当に驚いている。
9)でも、もう限界を宣言していいのではないかと思う。私は現場にいるときに、二つの運動をしていた。一つは、職員室に小さな笑いを運動である。子どもたちは荒れることもある。そりゃあそうだ。こんな社会だ。荒れても仕方がない。しかし、職員室が温かければ教員は大丈夫。
10)だから、職員室に小さな笑い運動をしていた。例えば、印刷用の紙に「あたり」と書いたものを偲ばせておくとかf(^^;。温かい職員室ならなんとかなる。もう一つは、元の場所に戻そう運動である。片付けの出来ない私が言うのもなんだが、これである。
11)つまり、家庭でやることは、家庭に。社会がやることは社会に。医者がやることは医者に。保健所がやることは保健所に...。ということである。そうやって考えて行くと、教師は教師がやるべき仕事ではない仕事、いや、やっては行けない仕事を多くやっていると言えないだろうか。
12)例えば、体調の悪い生徒の様子を見る。おでこで熱を測る。そして、声をかける。もちろん、これで治る子どももいる。が、(これ、医師法違反じゃないかなあ)とどっかで思っていた。(なんで、看護婦や医者が学校にいないのかなあ。子どもの命をちゃんと守ろうよ)と思っていた。
13)多くの日本の先生は、仕事がしたくないではなく、仕事がしたいのだと思っている。そして、本当はやってはいけない仕事や、これは教員の仕事ではないよなあという仕事を、いつのまにか「そういうもんだよ」と思い込まされてやっているのではないか。そして、授業ができなくなっている。
14)私は、この話をご縁のある教育委員会の人たちにも話しています。現場上がりの教育委員会の先生たちの中には、本当にそう思うという声を上げて下さる方もいます。また、政治に関わる人に話したら、全く現状を理解していなくてそれはまずいだろうと言った人もいます。
15)能天気に考えませんか。多くの人たちは、先生は凄いからなんでもできる。出来てほしい、出来て当たり前と思っている。それはありがたいこと。しかし、一方で学校教育現場のことは分かっていないのです。生徒として長く学校にいたから学校のことは分かっていると思っているのでしょう。
16)しかし、どんなにテレビを見続けたところでテレビが作れないように、生徒で居続けたからと言って先生の仕事は分からないものです。もしそうだとしたら、分からない、分かっていないところにそっと呟きながら分かってもらうと言うのはどうでしょうか。
17)教師は、伝えることが仕事なのではないかと思います。まず、現状を呟きつつ、あちこちに理解してもらうことではないかと思います。逃げるのではなく、私たちが良い仕事をするため。そして、それは当たり前ですが子どもたちを大切に育てるためであると思うのです。
18)その切り口の一つとして、学級事務職を導入すべきであると私は考えています。以上、学級事務職に関して1)から18)の連続ツイートでした。
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やはり,こうした声をどんどん広げていかなければ,教員である自分達が
本来するべき仕事以外のことで疲弊しまっているのではないか。
かくいう自分も今学期,実は後半絶不調だった。仕事はしているが,
かなり重たい気持ちで日々を過ごしていた。要望に応えたいが,その能力がないと。
時間は作るものと言われるが,帰って寝るだけのサイクルになっているのに,
これ以上どうすればと言う思い。なんだか代弁して下さっているような気がした。
RTで教えて下さったtanaponさんに感謝。
学級事務職員導入について興味深いコメントをされている。以下は知り合いの先生方に
メールにまとめて送ったもの。
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本や講座で有名な「明日の教室」シリーズの事務局をつとめられている
京都橘大学 池田修先生が興味深い主張をされています。どうお感じになりますか?
池田修先生のtwitter
http://twitter.com/#!/ikedaosamu
学級事務員についてのblogでの主張1
http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2010/12/post-114d.html
学級事務員についてのblogでの主張2
http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2010/12/post-a47b.html
twitterでの主張
1)教師はまじめでないとダメである。そりゃあ、子どもたちの命や未来に関わっての仕事なのだから、きちんとしていなければダメである。それは、そうである。だが、これが今や限界に来ているのではないだろうか。
2)バーンアウト。燃え尽き症候群である。これは看護婦、医者、教師などに多い。もっともっとと自分を追い込んで、最終的に燃え尽きてしまうのである。こんな私でも(あ、燃え尽きるかもしれない)と思ったことがある。
3)教師の仕事はゴールがない。そして、子どもを相手にしているので、まじめなので、どうしても(自分が頑張らなければならない)と思ってしまいがちなのだ。そして、頑張った結果燃え尽きてしまうことがある。私は何人かの燃え尽きた先生と仕事をしたこともある。
4)また、教師は「流石、先生!」と言われることを求められる仕事でもある。逆に言えば自分から「私はもうダメです」と言えない仕事なのである。先生という仕事は、子どもたちから(この先生の言うことは聞かなければ)と思われないと成り立たない仕事なのである。
5)かつて、そう30年位前までの日本は、「先生の言うことを良く聞くんだよ」と親が学校に送り出してくれた。しかし、今は違う。親が、社会が作ってくれていた「先生」というポジションを、先生が学校が作り出した上で、先生の仕事をしなければならない。これ、新人に出来るのか?
6)「流石先生!」と言われることを求められる先生は、「私には出来ません」と言えない。これが先生の精神疾患、多くは鬱病の元になっているのではないかと私は考えている。
7)先生は、スーパーマンではない。それでもスーパーマンを求められる仕事である。それはそうだと思う。だが、限界に来ている先生は多い。デンマークの教育を視察に行ったとき、学校のあらゆる職種にサポートがいるのに驚いた。校長にまでいる。
8)ところが、日本ではサポートどころか追いつめてくる。「あなたの指導がおかしいのでは?」という文脈で。ま、たしかに100万人もいれば、これはいかがなものかという教員もいる。しかし、多くの教員は踏ん張っている。ヨーロッパの教員の友人は、日本の教員のレベルの高さに本当に驚いている。
9)でも、もう限界を宣言していいのではないかと思う。私は現場にいるときに、二つの運動をしていた。一つは、職員室に小さな笑いを運動である。子どもたちは荒れることもある。そりゃあそうだ。こんな社会だ。荒れても仕方がない。しかし、職員室が温かければ教員は大丈夫。
10)だから、職員室に小さな笑い運動をしていた。例えば、印刷用の紙に「あたり」と書いたものを偲ばせておくとかf(^^;。温かい職員室ならなんとかなる。もう一つは、元の場所に戻そう運動である。片付けの出来ない私が言うのもなんだが、これである。
11)つまり、家庭でやることは、家庭に。社会がやることは社会に。医者がやることは医者に。保健所がやることは保健所に...。ということである。そうやって考えて行くと、教師は教師がやるべき仕事ではない仕事、いや、やっては行けない仕事を多くやっていると言えないだろうか。
12)例えば、体調の悪い生徒の様子を見る。おでこで熱を測る。そして、声をかける。もちろん、これで治る子どももいる。が、(これ、医師法違反じゃないかなあ)とどっかで思っていた。(なんで、看護婦や医者が学校にいないのかなあ。子どもの命をちゃんと守ろうよ)と思っていた。
13)多くの日本の先生は、仕事がしたくないではなく、仕事がしたいのだと思っている。そして、本当はやってはいけない仕事や、これは教員の仕事ではないよなあという仕事を、いつのまにか「そういうもんだよ」と思い込まされてやっているのではないか。そして、授業ができなくなっている。
14)私は、この話をご縁のある教育委員会の人たちにも話しています。現場上がりの教育委員会の先生たちの中には、本当にそう思うという声を上げて下さる方もいます。また、政治に関わる人に話したら、全く現状を理解していなくてそれはまずいだろうと言った人もいます。
15)能天気に考えませんか。多くの人たちは、先生は凄いからなんでもできる。出来てほしい、出来て当たり前と思っている。それはありがたいこと。しかし、一方で学校教育現場のことは分かっていないのです。生徒として長く学校にいたから学校のことは分かっていると思っているのでしょう。
16)しかし、どんなにテレビを見続けたところでテレビが作れないように、生徒で居続けたからと言って先生の仕事は分からないものです。もしそうだとしたら、分からない、分かっていないところにそっと呟きながら分かってもらうと言うのはどうでしょうか。
17)教師は、伝えることが仕事なのではないかと思います。まず、現状を呟きつつ、あちこちに理解してもらうことではないかと思います。逃げるのではなく、私たちが良い仕事をするため。そして、それは当たり前ですが子どもたちを大切に育てるためであると思うのです。
18)その切り口の一つとして、学級事務職を導入すべきであると私は考えています。以上、学級事務職に関して1)から18)の連続ツイートでした。
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やはり,こうした声をどんどん広げていかなければ,教員である自分達が
本来するべき仕事以外のことで疲弊しまっているのではないか。
かくいう自分も今学期,実は後半絶不調だった。仕事はしているが,
かなり重たい気持ちで日々を過ごしていた。要望に応えたいが,その能力がないと。
時間は作るものと言われるが,帰って寝るだけのサイクルになっているのに,
これ以上どうすればと言う思い。なんだか代弁して下さっているような気がした。
RTで教えて下さったtanaponさんに感謝。
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