筑波大学附属小学校公開研究会 1日目
今日は朝から雪だった。みぞれ混じりだったので,傘をコンビニで調達すべきだったと
少し後悔。だが,余裕を持って出発していたおかげで授業公開には余裕で間に合った。去年は講堂に入ることすらできなかったが,今年は席にに座って
授業を参観することができた。去年は初めてだったので,様子がわからず,
授業にもようやく到着できるといった有様だった。今年も多くの参観者が
授業を見学に訪れていた。授業開始時間になっても受付が済んでいない参観者も
多かったようで,授業開始時間が10分遅れた。これも去年同じようなことがあったと思う。
去年は教官の先生の名前など知らない状態で参観させていただいたが,今年は
ねらいを持って見学。勤務校の研究に大いに参考にさせていただいた
白石範孝先生の授業を参観した。今年も大きな発見があった。3年生の
「合図としるし」の授業で子どもたちが教材文中の内容を具体と抽象に分けて分析し,
論じあっていた。ここだけ取り上げると,「やはり筑波の子は違う」と
なってしまうと思う。確かに優秀で学力の高い子どもたちが集まっている感じはするが,
大切なのは,教材文を分析するために必要な用語を定義づけていることなのだ。
一つ間違うと,こんなのうちの学校ではまねできないとなってしまう。
でも,やりたいこと,子どもに学ばせたいことがあるから,それを1年生の時から
積み上げている結果が3年生の段階で「具体と抽象」という言葉を使って
分析し,論じることができるという結果を生んでいるのだと思った。
また,学ばせたいことを順に読んでいくのではなく,ざっと本文を読んで
結論部分からなぜそうなるのかを読み込んで検証していっている。
去年初めて知った「逆思考」の読みをずっと実践されているようだ。
去年はこの読み方について批判もあったように思うが,今年はすでに定着している
感さえあった。やはり,研究というのは絶えず進んでおり,自分の頭もそれに
ついていかなければならないのだと思った。
次は同じく国語で6年生の伝統的な言語文化の授業というテーマでの提案授業。
青山先生の授業。漢詩を読ませていた。6年生にはかなり難解な内容であったと思うが,
それでも子どもたちはついて行っていた。ただ,これは自分の頭がそちらの
ベクトルではなかったためか,なかなかつかめなかった。後の研究協議では,
会場からも「そこまでやらせる必要があるのか」といったような指摘が聞かれた。
自分にもなかなか判断がつかなかったが,パネラーの先生からは「楽しさ」が
伴っていれば,この実践の価値があるというくくりだったように思う。
これについては自信がない。自分が今の力で実践すると考えると,
ここまで高レベルな内容は怖くて扱えない。ただただ訳のわからないものを
ただ聞かされ,考えさせられる授業しか自分にはできそうにないと思うからだ。
青山先生の授業では,既存の知識を総動員して,教師の支援はもちろん受けながらだが,
意味を理解し,読み味わうことの入り口を子どもたちにつかませていたように思う。
ただ,やはり内容が高度だったため,時間は押し気味だった。それが参観者にとって
「少し内容が高度すぎるのでは?」という指摘につながっていたように思う。
次に英語活動の分科会を見学。ここは国語の分科会の前半を聞いてから行ったので,
会場は満杯。ドア越しに会の様子を聞いた。ここも熱いやりとりがなされていた。
今年から多くの学校で実践されている英語活動だけにその関心も高い。
(もちろん国語も講堂に人があふれて身動きがとれないほどだった。念のため。)
おそらくどの学校も手探り状態のため,みんな,何らかのヒントを得たがって
いるように見えた。もちろん自分もその一人として聞きに行ったわけだが。
基本的にはALTと担任の役割分担についてとか,英語ノートの使い方であるとか,
評価についてであるとかのきわめて実践的な内容が話題として取り上げられていた。
どこも知りたがっているのだ。どうすればよいのかを。誤解を恐れずに言えば,
もっと具体的にああしろ,こうしろと言ってくれた方が今の時点では混乱が
少ない気がするのだが,どうだろう?確かに「活動」であるので,担任個々が,
あるいは学校がカリキュラムを作成して,活動を工夫していくべきなのだが,
いかんせん国語や算数のように,「授業のイメージの下敷き」がなさ過ぎるので,
みんな右往左往するのだと思う。結局自分のやっていることに「いいよ」という
お墨付きがもらいたくなる。だから最初に「こんなのがいいのだ」という下敷きを
たくさん見せてもらわないと安心できない。なんだか自分が初任者だった頃始まった
「総合的な学習の時間」ににている気がする。もちろん自分の子どもの頃に
総合の時間があるはずもなく,どうしていいかわからない状態の時に
「何をやってもいいんですよ」みたいに言われた記憶がある。でも,
イメージがわかない状態の時にそんなことを言われても,何にもできないのである。
本当はそれではいけないことは重々承知の上で,でも,イメージが作れない
苦しみが実際にはあるということ。もちろんすべての教員が,というつもりはない。
でも,結構たくさんの教員がそれを不安に思っているのではないか。
そういう意味では今日の英語活動の授業は非常に提案性があり,よい授業だったようだ。
実際には見ていないが,参加者の感想からそう感じることができた。
分科会で発表者の先生方が言われていたことは,ALTまたは指導者の指示を
訳してはいけないということだった。また,中学校の学習内容を前倒しもしてほしくない
ということを強く言われた。発音や文法が正しいことを求め過ぎないこと。
その場の空気やフィーリングで動けるこ子どもたちにしたいというのが
大きなねらいのようだ。つまり,イングリッシュスピーカーを育てるのではなく,
グローバルコミュニケータ(この表現であってるのかは自信がない)を
育てることに重きが置かれている。それを,ALT頼みにするのでなく,
担任が工夫した「楽しい」活動に仕立てていくことこそ重要ということだ。
これなら理解できる。これは子どもの前で指導するすべての教員に求められる
資質,能力であり,磨いていくべきところだろう。
1日目の収穫はこんな感じ。
少し後悔。だが,余裕を持って出発していたおかげで授業公開には余裕で間に合った。去年は講堂に入ることすらできなかったが,今年は席にに座って
授業を参観することができた。去年は初めてだったので,様子がわからず,
授業にもようやく到着できるといった有様だった。今年も多くの参観者が
授業を見学に訪れていた。授業開始時間になっても受付が済んでいない参観者も
多かったようで,授業開始時間が10分遅れた。これも去年同じようなことがあったと思う。
去年は教官の先生の名前など知らない状態で参観させていただいたが,今年は
ねらいを持って見学。勤務校の研究に大いに参考にさせていただいた
白石範孝先生の授業を参観した。今年も大きな発見があった。3年生の
「合図としるし」の授業で子どもたちが教材文中の内容を具体と抽象に分けて分析し,
論じあっていた。ここだけ取り上げると,「やはり筑波の子は違う」と
なってしまうと思う。確かに優秀で学力の高い子どもたちが集まっている感じはするが,
大切なのは,教材文を分析するために必要な用語を定義づけていることなのだ。
一つ間違うと,こんなのうちの学校ではまねできないとなってしまう。
でも,やりたいこと,子どもに学ばせたいことがあるから,それを1年生の時から
積み上げている結果が3年生の段階で「具体と抽象」という言葉を使って
分析し,論じることができるという結果を生んでいるのだと思った。
また,学ばせたいことを順に読んでいくのではなく,ざっと本文を読んで
結論部分からなぜそうなるのかを読み込んで検証していっている。
去年初めて知った「逆思考」の読みをずっと実践されているようだ。
去年はこの読み方について批判もあったように思うが,今年はすでに定着している
感さえあった。やはり,研究というのは絶えず進んでおり,自分の頭もそれに
ついていかなければならないのだと思った。
次は同じく国語で6年生の伝統的な言語文化の授業というテーマでの提案授業。
青山先生の授業。漢詩を読ませていた。6年生にはかなり難解な内容であったと思うが,
それでも子どもたちはついて行っていた。ただ,これは自分の頭がそちらの
ベクトルではなかったためか,なかなかつかめなかった。後の研究協議では,
会場からも「そこまでやらせる必要があるのか」といったような指摘が聞かれた。
自分にもなかなか判断がつかなかったが,パネラーの先生からは「楽しさ」が
伴っていれば,この実践の価値があるというくくりだったように思う。
これについては自信がない。自分が今の力で実践すると考えると,
ここまで高レベルな内容は怖くて扱えない。ただただ訳のわからないものを
ただ聞かされ,考えさせられる授業しか自分にはできそうにないと思うからだ。
青山先生の授業では,既存の知識を総動員して,教師の支援はもちろん受けながらだが,
意味を理解し,読み味わうことの入り口を子どもたちにつかませていたように思う。
ただ,やはり内容が高度だったため,時間は押し気味だった。それが参観者にとって
「少し内容が高度すぎるのでは?」という指摘につながっていたように思う。
次に英語活動の分科会を見学。ここは国語の分科会の前半を聞いてから行ったので,
会場は満杯。ドア越しに会の様子を聞いた。ここも熱いやりとりがなされていた。
今年から多くの学校で実践されている英語活動だけにその関心も高い。
(もちろん国語も講堂に人があふれて身動きがとれないほどだった。念のため。)
おそらくどの学校も手探り状態のため,みんな,何らかのヒントを得たがって
いるように見えた。もちろん自分もその一人として聞きに行ったわけだが。
基本的にはALTと担任の役割分担についてとか,英語ノートの使い方であるとか,
評価についてであるとかのきわめて実践的な内容が話題として取り上げられていた。
どこも知りたがっているのだ。どうすればよいのかを。誤解を恐れずに言えば,
もっと具体的にああしろ,こうしろと言ってくれた方が今の時点では混乱が
少ない気がするのだが,どうだろう?確かに「活動」であるので,担任個々が,
あるいは学校がカリキュラムを作成して,活動を工夫していくべきなのだが,
いかんせん国語や算数のように,「授業のイメージの下敷き」がなさ過ぎるので,
みんな右往左往するのだと思う。結局自分のやっていることに「いいよ」という
お墨付きがもらいたくなる。だから最初に「こんなのがいいのだ」という下敷きを
たくさん見せてもらわないと安心できない。なんだか自分が初任者だった頃始まった
「総合的な学習の時間」ににている気がする。もちろん自分の子どもの頃に
総合の時間があるはずもなく,どうしていいかわからない状態の時に
「何をやってもいいんですよ」みたいに言われた記憶がある。でも,
イメージがわかない状態の時にそんなことを言われても,何にもできないのである。
本当はそれではいけないことは重々承知の上で,でも,イメージが作れない
苦しみが実際にはあるということ。もちろんすべての教員が,というつもりはない。
でも,結構たくさんの教員がそれを不安に思っているのではないか。
そういう意味では今日の英語活動の授業は非常に提案性があり,よい授業だったようだ。
実際には見ていないが,参加者の感想からそう感じることができた。
分科会で発表者の先生方が言われていたことは,ALTまたは指導者の指示を
訳してはいけないということだった。また,中学校の学習内容を前倒しもしてほしくない
ということを強く言われた。発音や文法が正しいことを求め過ぎないこと。
その場の空気やフィーリングで動けるこ子どもたちにしたいというのが
大きなねらいのようだ。つまり,イングリッシュスピーカーを育てるのではなく,
グローバルコミュニケータ(この表現であってるのかは自信がない)を
育てることに重きが置かれている。それを,ALT頼みにするのでなく,
担任が工夫した「楽しい」活動に仕立てていくことこそ重要ということだ。
これなら理解できる。これは子どもの前で指導するすべての教員に求められる
資質,能力であり,磨いていくべきところだろう。
1日目の収穫はこんな感じ。